_2ch痛いニュース
※下品や過激な表現を含む

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/737450.html

これは体罰って言わなくていい。
体罰として問題にすべきは、それこそ机の角に頭をぶつけるとか、竹刀や木刀を持ち出すとか、ろくに手加減のない柔道技をかけることだ。
それはもちろん問題で、でもまったく逆のことも問題なわけで。

悪いとされていることを、コソコソやるなら、まだともかく、堂々とされるのは先生側の立場がないし、規則の意味が全くない。
それを見て真似する生徒はいくらでもいるから、規則が「なぁなぁ」になったら余計そうなる。
「守らない生徒がいること」と「みんな守らなくなること」は全く違う。

規則に全く縛られる必要はない。
携帯を持っていきたければ持てばいい。
そんなこと言わなくたって破る人は破る。
でもそれを破ることのリスクはリスクとして、ちゃんとあるべき。
じゃなければ簡単にエスカレートするから。

口で言って分からなければ多少の痛みも必要だ。
それを否定する人たちは、そんなに口が上手いとか、何もしなくても威厳があるとか、非常に温和だとかで、優等生から相当な不良にまで好かれる立派な人たちなんだろうか。
だったら、どうか、「痛み」を肯定する教師達を否定する前に、ご自身が立派な教師となって頂きたい。
そんな風になれる人は漫画の中にしかいない。
いないことはなくても、少ないでしょ。
多くの教師はそんなんじゃなくて、それぞれ個性のある普通の人間にすぎない。
人には向き不向きがある。

高校生の反抗は別にいい。反抗する生徒が居たとしても、おかしくないから。
でも何でこんな簡単な理屈が大人に分からないんだろう?
で、分からない大人がいるとして、何故それが世間で肯定されかけてるんだろう?


感情的になって殴るのはあまり良くないと言われる。
確かにそうだろうけど、先生だって人間なんだから、堪忍袋の尾が切れることだってある。
それは忘れちゃいけないと思う。それが良くないってことに変わりないけど。

性善説を主張する人がいる。
性善説を信じても構わないと思うときがあるが、だからこそ、ある程度の「痛み」や「制約」や「規則」が必要だとも考えられる。
中庸って言葉がある。釈迦の琵琶についての教えもある。
どんなに素質のいい人間でも、甘やかされてばかりいたら、どうなるか分からない。
で、現代日本は、甘やかしに適した環境だろう。
まるでそれのバランスを取るかのように虐待が目立つのが痛々しい。
極端なのかな。色々なことが。

コメント

nophoto
e~
2006年7月20日23:28

体罰(常識の範囲内の)を否定はしない、というか、
いろんな人がいていいと思うのですが・・

私はしない派です。べつに立派な人ではありません。
「叩いたりつねったりしなくても、おさえたりとりあげれたりすればいいのでは?」と思っています。
「痛いからやらない」のと、「いけない(やめてほしい)ということを感覚で伝えてもらう」こととは、違うような気がします。
ケータイ云々はともかく、何が正しいのかなんて高僧でもわからないようなことがらもありますし・・・

ただ、高校生くらいになると難しいかもしれないですね(^^;)

nophoto
e~
2006年7月20日23:30

とりあげれたり→とりあげたり

すいません。。

暇つぶしの達人
暇つぶしの達人
2006年7月21日9:15

否定する人がいてもいいと思います。
ただ、平手打ちだけで教員が処分を受けた実態を知ると考えさせられます。

感覚で伝えるということが難しく思えます。
非暴力での注意も「痛いからやらない」なのだと思ってしまうので。
(「痛いから」でなく「うるさいから」ですが)
まぁ、暴力なんて、無くて済むのが一番いいですけど。

高校生くらいの年齢は暴力的指導がやりやすく効果的だと思います。
(というか、それに限らず普通に指導しやすい)
比較的、我を張らないので大抵は口頭での注意で済むし、非を認めるときはすぐ認めるので。
数年前の自分の周りについての主観ですが。;

nophoto
e~
2006年7月21日14:25

言葉が足りなかったかもしれません。すみません。

体罰(常識の範囲内)をする教師を否定しているのではありません。
おっしゃるとおり教師も人間なので、いろいろな性格の人がいて当然ですし、やめましょうと言ったところで、する人はするでしょうから、「しかたがないや」と思っています。

処分については、学校にもよるでしょうけれども、
私個人的には処分でいいのではないかと思います(一感想としてご容赦ください。処分は不当だと思う人がいるのもわかります)

私の経験にすぎませんが、感覚で伝えることは難しくありません。
そのばあい子供は「痛いからやらない」のではなくて、「こちらと意思が疎通する」ように感じます。

「高校生くらいになると難しいかもしれない」というのは、
私が書いたような方法が難しくなるかもしれない、という意味で、
おっしゃるとおり、暴力的指導は通りやすいかもしれません(私は暴力的指導をしたことも、高校生を相手にしたこともないので、推測ですが・・・)

ただ、それは「我を張らない」というよりも、
ある意味「オトナの処世術を身につけてあきらめる(心の中で舌を出している場合もあるかもしれません)」のではないか?と思うのです。
「体裁さえ整えばよい」「その場がおさまればよい」のであれば、有効かもしれません。

余談ですが、私は「我を張らない」のは一概に良いこととは思えません。
たしかにケータイごときでモメるのはくだらないというか、高校生にしてはモメるテーマが大人気ないとは思いますが、
我を張らないことをよしとする「日本の美徳」は、世界中で通用するわけではありません。

また、「我を張る」の解釈のしようによっては、失礼ながら記事本文も相当「我を張って」いらっしゃるように思いました。
「僕はこう考えます」、それでよろしいのではありませんか?
みんなが同じ考え方ではありません。
体罰をしないでやっていこうとする在りかたを否定される(ように感じました。違ったらすみません)ようで、悲しいです。

>だったら、どうか、「痛み」を肯定する教師達を否定する前に、ご自身が立派な教師となって頂きたい。

”立派”の定義にもよりますが(誰が評価するのか)
私は子供に慕われるように努力したいと思います(教師ではありませんが、近縁の人間として)

お返事ありがとうございました。

nophoto
e~
2006年7月21日16:21

いろいろなBlogでいろいろな記事を読んでいて、
「地域性」について考えさせらることが多いです。

早稲田大の喜多明人教授によると(私は氏のシンパでも日教組の関係者でもありません。あくまでも参考に引用)
「家庭でも体罰が行われ、学校にも厳しさを求める九州という土壌が(e~注:体罰容認に)反映されたようだ。関東などとは違った反応かもしれない。しかし、体罰は人権侵害ということを理解しないといけない」
・・・のだそうで、この発言に九州のみなさま(生徒本人たちからも)から非難轟々だったとか。

京都は左寄りな土地柄なので、中島みゆきの歌ではありませんが「京都には京都の正しさがある」のかもしれません。

感覚的に驚いてしまったので、こんな切り口からも。。

暇つぶしの達人
暇つぶしの達人
2006年7月23日0:31

語弊があったら、ごめんなさい。

感覚で伝える難しさは、高校生くらいも、それ以外も、さほど変わらないと考えます。
ただ、それより下の年齢に比べれば、無闇やたらな反抗をせず、引き際も心得ているだろうと。

>「我を張らない」というよりも、ある意味「オトナの処世術を身につけてあきらめる」のではないか?と思うのです。

そうですね。その側面が「物分りがいい」なのでしょう。
そういう生徒が多少でもいれば、教師側も必要以上に難儀しないだろうと思います。

>私は「我を張らない」のは一概に良いこととは思えません。
>「日本の美徳」は、世界中で通用するわけではありません。

この二点には同意です。

>記事本文も相当「我を張って」いらっしゃるように思いました。

そうですね。反省します。

>体罰をしないでやっていこうとする在りかたを否定されるようで、悲しいです。

否定するつもりがない、と言ってしまうと矛盾しますが、否定したくはありません。
暴力的指導を全くなしにやっていこうとする意志は、(その人の中で完結するなら文句なしに)それはそれで素晴らしいものだと思います。

>「地域性」 >九州の気質の傾向
なるほど、これは失念していましたが、深く関わってくるものですね。
その教授の考えにも一理あると感じます。
そんな言い方で一概に決め付ければ非難も当然でしょうけど。

貴重なご意見をありがとうございます。

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